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武蔵野航海記

武蔵野航海記

日本神話について

八幡太郎さんが日本神話に関してコメントしてくれました。

そして、日本の多数の学者の見解に対して異議を唱えている学者の著作を紹介してくださいました。

萩野貞樹 「歪められた日本神話」
吉田敦彦 「日本神話はなぜギリシャ神話に似ているのか
 - 日本人の心のふるさと」

この二冊の本の内容は非常に興味深いものでしたので、いろいろ書きたくなりました。

「日本神話はなぜギリシャ神話に似ているのか - 日本人の心のふるさと」の著者吉田敦彦は、学習院大学教授で西洋古典学が専門です。

この本は子供用で非常に分りやすい本ですが、日本神話はギリシャ神話そっくりだというのです。

そしていくつかのの例をあげています。

オルペウスの美しい妻エウリディケが毒蛇に咬まれて死んでしまいましたが、諦めることができませんでした。

そこで地下にある死者の国の王ハデスに妻を連れて帰りたいとお願いしました。

オルペウスの気持ちに動かされたハデスは願いを叶えることにしましたが、条件を付けました。

地上に出るまでは、振り返ってエウリディケの姿を見てはいけないということです。

最初は我慢していたオルペウスもたまらなくなって後ろを振り返ってしまいました。

そうすると懐かしいエウリディケの姿が眼に入りましたが、次の瞬間には彼女はハデスのもとに連れ戻されてしまいました。

もう皆さんはお気づきと思いますが、これは日本神話のイザナギとイザナミの話にそっくりです。

イザナギとイザナミ夫婦は日本の国土と多くの神を産みましたが、最後に彼女がカグツチという火の神を生み、やけどをして死んでしまいました。

妻の死の原因となった我が子カグツチをイザナギは切り殺してしまいましたから、彼は非常に直情径行の男です。

彼も妻イザナミを忘れがたく、オルペウスと同じく黄泉の国(死者の国)に行ってイザナミと会い、地上に帰ってくるように懇願しました。

彼女は何故もっと早く来てくれなかったのかと残念がりました。

彼女はヨモツヘグイをしてしまったからです。ヨモツヘグイとは死者の国の食物を食べることを意味し、これを食べるともう地上には帰れないのです。

しかし愛しい夫がわざわざ迎えに来てくれたので、彼女は黄泉の国の神々と相談してくるから待っていてくれと言いました。

そして待つ間、自分を見ないで欲しいと頼んだのです。

こうして奥に行ったイザナミがなかなか帰ってこないので、イザナギはとうとう彼女を見てしまいました。

彼女の腐乱死体を見たイザナギは、そこから一人で地上に逃げ帰りました。

イザナギもオルペウスと同じく死んだ妻を死者の国から取り返すことに失敗したのです。

また妻の姿を見てはならないという条件を破ったので連れ戻しに失敗したところも共通しています。

ギリシャの死者の国の王はハデスですが、その妻をペルセポネといいます。

彼女は非常な美人だったので、ハデスが略奪結婚してしまったのです。

ハデスはデメテルの弟なので、彼は姪を略奪したことになります。

ペルセポネの母親のデメテルは、娘が略奪されたことで怒り悲しんで、神々の世界を離れ人間界を放浪しました。

そしてエレフシスという町に神殿を建ててそこにこもってしまいました。

デメテルは農業の神様なので、彼女が神界から去ったことにより地上では作物が実らなくなり大飢饉になりました。

そこで神界のボスであるゼウスが死者の国の王ハデスに、「ペルセポネをデメテルに返せ」と命令したのです。

ハデスはゼウスの命令に従いましたが、ペルセポネは母のもとに帰れると知って喜び口を開けました。

その瞬間にハデスはペルセポネの口にざくろの実を押し込んで食べさせてしまいました。

このざくろの実は死者の国の食物でヨモツヘグイなのです。

結局、死者の国の食物を食べたペルセポネは地上に帰れず、ハデスの妻のままになりました。

イザナミもペルセポネも死者の国の食物を食べたために地上に帰れなくなったのです。

また地上に帰れなかったイザナミは黄泉の国の王の妻となりましたから、二人とも死者の国の王妃になったことでも共通しています。

さてペルセポネの母で農業の神のデメテルは、エレフシスの町に来たわけですが、そこの王から食事に招待されました。

しかし娘をさらわれた怒りと悲しみで一切口をきかず食事もしませんでしたが、この王の食卓でも同じでした。

この女神様の様子を見たバウボという女は、裸になり自分の陰部をむき出しにして踊りました。

これをみたデメテルは可笑しくて笑い出し、食事を摂ることも承知しました。

これは天照大神の天の岩戸の話にそっくりです。

弟であるスサノオの乱暴狼藉に怒った天照大神は、岩山の洞穴(天の岩戸)にこもり、戸を閉めて閉じこもってしまいました。

太陽の女神が洞穴に閉じこもったため、世界は真っ暗になり大変な混乱がおきました。

困った神様たちは、天の岩戸の前で大宴会をして大騒ぎしました。

その時にアメノウズメノミコトという美人の女神がスカートをずらせて陰部を丸出しにして踊り、男神たちの大喝采を受けました。

その大騒ぎを何事だとおもって天照大神は戸を少し開けたところをアメノタジカラノオという馬鹿力の神様が、戸を開けて彼女を外に連れ出しました。

そして太陽神である彼女から発する光が再び地上を照らすようになりました。

天照大神もデルメルも弟の乱暴に怒って姿を隠してしまいます。

その結果人間界は大いに困りました。

隠れた女神を外に出そうとして、どちらの物語も美女が陰部をむき出しにして踊りをし、女神が再び現れて地上の人間は救われ、メデタシメデタシになっています。

吉田教授の本は、他にもギリシャ神話と日本神話の似ている物語を紹介していて、両者に何らかの関係があることを納得させてくれます。

吉田教授は、似ている理由を次のように説明しています。

古代ギリシャは地中海貿易を盛んに行っており、地中海とは海路で繋がっている黒海沿岸にも多くの植民市を作りました。

その黒海沿岸のステップには、イラン系のスキタイ人という遊牧民がいてギリシャから多くの商品を買い、ギリシャ文化の影響を強く受けていたのです。

地図を見ると分るように、黒海北岸から満州まで砂漠と草原で繋がっています。

そしてそこには、スキタイ人と同じ生活様式を持った遊牧民がいます。

古来このルートを通じて様々な文化が交流しました。

鐙(あぶみ)を着けて馬に乗るという革命的な生産技術を発明したのがスキタイ人で、この鐙はこのルートで蒙古人や満州人に伝わりました。

このルートを逆に東から西に攻め込んだのがジンギスカンです。

満州の端にいた遊牧民が扶余で、彼らが朝鮮半島に侵入して作った国が高句麗と百済です。

古代では、この高句麗と百済は日本と深い関係を持っていました。

つまり、ギリシャ神話はスキタイを通じて扶余・高句麗・百済に入り込み最終的に日本にも入ってきたという説明です。

吉田教授はスキタイの神話と高句麗・百済・日本の神話が似ていることを、例をあげて説明しています。

スキタイ神話とギリシャ神話が似ている例を教授は挙げていませんが、スキタイ人の子孫であるオセット人が伝えている神話とギリシャ神話が共通している例をあげています。

結局、ギリシャ神話の影響を受けたスキタイ神話というのがあったはずで、それが遥か日本まで届いたというわけです。

吉田教授は次のようなスキタイ神話を紹介しています。

タルギオスというスキタイ人の始祖は天上の一番偉い神様で、母は川の神様の娘でした。

あるとき天から宝物が降ってきました。

タルギオスには三人の息子がいましたが、上の二人が宝物に近づくと火を発して採れず、三男コラクサイスがその宝物を手に入れました。

この奇蹟を見て兄二人は弟を初代スキタイ王にしました。

この神話の朝鮮・日本神話との共通点の一つは初代王の母が水の神様の娘だという点です。

高句麗初代王の母は川の神の娘です。

日本の天照大神のひ孫が海の神の娘と結婚し、そこから生まれた息子がまた海の神の娘と結婚して出来たのが神武天皇という初代の王です。

スキタイ神話と日本神話は三種の神器という点でも似ていると吉田教授は説明しています。

天から降りてきた宝物をコラクサイスが採って、初代スキタイ王になったのですが、この宝物は農具と武器と杯でした。

杯は宗教儀式に使うものですから、この三つの宝物は、食料の生産、戦争、宗教という機能を象徴するものです。

一方日本の三種の神器はヤタの鏡、クサナギの剣、ヤサカニの勾玉です。

ヤサカニの勾玉は稲を現し、鏡は宗教儀式に使います。

ですから日本の三種の神器も食料の生産、戦争、宗教の機能を象徴しています。

高句麗の神話に出てくる宝物もこの三つの機能を象徴しているようです。

他にも吉田教授はスキタイ、高句麗、日本の神話の共通点をたくさんあげています。

また吉田教授は、日本神話には縄文時代から伝わっているものもあるとしています。

お腹をすかせたスサノオがオオゲツヒメという女神のところに来て、何か食べさせて欲しいといいました。

すると親切なオオゲツヒメは、おいしい食べ物を口、鼻、おしりの穴からどっさり出しました。

彼女が食料を出すところを覗き見したスサノオは、自分に汚いものを食べさせようとしていると思い、この親切な女神を切り殺しました。

すると彼女の死骸からカイコ・稲・粟・小豆・麦・大豆が生えてきました。

それを高天原の神がとってきて農業を始めました。

これと同じような神話が南太平洋や南北アメリカにあるそうですが、吉田教授は縄文時代からあった神話だと考えています。

縄文時代の遺跡から多くの土偶が見つかっていますが、土偶は乳や腹がふくらんでおり、女だと考えられます。

土偶は完全な形で発見されたものがなく、同じ場所から見つかった破片をつなぎ合わせても完全な形になることがほとんどありません。

だから土に埋まる前に壊れていたと考えらます。

これを、女神さまが殺されるとその死体の破片から自分たちの食べ物となる作物が生えてくるという信仰を持っていたからだと考えると、全部の説明がつきます。

以前は縄文時代には農業が無かったと考えられていましたが、最近は農業も行われていたと考えられてきましたので、この辺の矛盾はありません。

女神様である土偶を壊して殺すことにより、作物が豊かに稔ることを信じてお祭りをしていたと考えるのです。

日本神話は、ギリシャからスキタイを経由して日本に伝わったものと縄文時代からある神話が混じっているもので、貴重な文化だから大事にしなければならないというのが吉田教授の結論です。

吉田教授に賛同しそれを発展させて、現在の古代史学者を強烈に批判しているのが萩野貞樹教授です。

萩野教授は元産能大学教授で、日本語の研究をされた方のようです。

これから萩野教授の書いた「歪められた日本神話」の内容を紹介していきますが、今の古代史学者を批判する書き方は、品位に欠けると思われるほど強烈です。

「はじめに」では次のように書いています。

「記紀神話を詳しく知ろうとして研究書などを読んでみると、そこにはなんだか変なことが書いてある。

記紀神話といわれるものは全部でっちあげの作り話で、要するに神話ではないとあるのである。

日本神話はないというわけだ。あるのは歴史を捻じ曲げて作った宣伝文書であり、当時の思想・観念が寓意化された心理資料だというのである。

なんと古めかしい考え方か。

たしかに学校でもそう教えている。まじめに学校の勉強をした人はみなそう思っているのだろう。

彼らの共通した認識はいわゆる記紀神話の記述は全部なにか他の事を述べたものだというのである。

例えば、高天原とあればそれは征服者の軍事基地だという。

八岐大蛇とあればこれは川の氾濫だという。

国譲りとあればこれは古代の内戦だといい、天孫降臨とあればこれは外人の漂着だという。

誰か神様が現れて、泣いた、喧嘩した、結婚した、とちゃんと書いてあっても、学者たちはこれを決して、その神が泣いた、喧嘩した、結婚したとは読まない。

なにか別の話だというのである。

この種の見方は、平成の日本ではそろそろやめていいのではないか。

高天原は高天にあったのである。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は八頭八尾の大蛇だったし、天孫は天から降臨したのである。

神が結婚したのならそれは結婚したのである。

文字さえ読めるならば、そこになんの疑問もあるまい。

私は本書でひたすらそのことを書いた。こんなに単純な本はめったにないだろう」。

という具合に書いてあります。

「戦後の日本古典の専門家は口をそろえて、『日本神話なんてものは皇室に都合よくこしらえあげたカヤカシもので、日本を戦争に駆り立てたイデオロギー装置である』と述べ立てた。」と萩野教授は言います。

日本の学者の説は「史実反映説」が主流です。

「史実反映説」というのは、神話に登場する神々はその昔実在した功績ある人物を神格化したものだ、という考え方です。

萩野教授はこの「史実反映説」を攻撃します。

出雲神話では、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメとめでたく結婚する話があります(この二人の子孫が大国主命です)。

それを「史実反映説」の学者は、八岐大蛇は出雲を流れる斐伊川のことでそれが水害をもたらした事実が八岐大蛇という大蛇に反映しているとしています。

そこで萩野教授は「川の氾濫が八岐大蛇になったと主張するなら、大蛇を退治したことは治水事業が完璧に果たされた史実の反映だと主張しなければならない。

その「史実」はどこにあるのだ」、と問い詰めるのです。

また梅原猛教授の説も「史実反映説」で、「神話の天照大神は持統天皇ないし元明天皇という日本書紀編纂当時の女帝の姿が神話に投影されたもの」と考えるのです。

持統天皇は天武天皇の正妻で、夫が亡くなったあと天皇になったのです。

天武天皇と持統天皇の間には草壁皇子が生まれましたが、彼には腹違いの兄弟というライバルが大勢いました。

持統天皇は自分の息子の草壁皇子が天皇になるように努力したのですが、彼は若くして死んでしまいました。

草壁皇子の息子の軽皇子、即ち持統天皇の孫はまだ幼かったので、この孫が成人するまで自分が天皇になることによって、ライバルを抑えようと考えたのです。

この祖母から孫への皇位継承というのは異常なので、持統天皇が反映された神話を創作してそれを正当化したのだというのが梅原猛説です。

天照大神という女神の孫であるホノニニギが高天原から天下ってその子孫が天皇になるという神話が作られたのです。

祖母から孫への皇位継承は昔からあった普通のことだと主張できるわけです。

萩野教授はこの梅原説に猛烈に反論しています。

高句麗や百済の神話と日本神話には似ている話が多いのですが、祖母から孫への王位継承の神話もあります。

だから、天照大神の神話も創作ではなく昔からあったものだというのです。

また、天照大神は自分の務めを放棄して洞窟にこもり、ストリップに興味を持って穴から出てきたオッチョコチョイなわけです。

もしも天照大神が現実の女帝である持統天皇のことであるとしたら、天皇の権威を傷つけるような話をわざわざ作るのはおかしいではないかとも言っています。

萩野教授が言うには、古事記や日本書紀を扱っている歴史家たちは日本には神話が存在しないと主張しています。

飛鳥時代の官僚が自分たちの権威を高めたり、大衆を瞞着したりするために捏造した政治的文書だとしているのです。

神話を認めると言うことは、それが太古以来の伝承であることを認めることになりますから、皇室の尊厳が高まってしまうからで、それが彼らには都合が悪いのだろうと萩野教授は書いています。

しかし神話というのは世界のどの民族も持っている自然なものです。

神話というものをもっと淡々として扱うべきだと萩野教授は主張しています。

また日本の学者は「聖数」を使って神話が捏造であることを証明しようとすると、萩野教授は非難しています。

支那の道教では三・五・七が聖なる数字で、日本書紀を書くに際して支那の聖数に合うように話を作ったと考えています。

特に有名な歴史学者である上田正昭教授が「聖数説」で有名です。

しかし萩野教授は、日本書紀にも聖数でない数字が頻繁に出てくるといっています。

また世界中の民族はそれぞれ「聖数」を持っているが、三・五・七が聖数の場合が多いとしています。

結局、古代の官僚が支那の「聖数」を使って神話を捏造したという何の証拠にもならない、というのが萩野教授の結論です。

また日本神話が支那の道教の文献の焼き直しだと言う説が最近はやっていますが、萩野教授はこれも誤りだとしています。

日本書紀に書かれている字が道教の単語だというのが「道教説」の根拠なのです。

唯神(かむながら)、禊祓(みそぎはらえ)などという道教の用語が日本書紀で使われているのです。

しかし、当時の日本には「かな」が未発達でしたから、日本の宗教儀式を道教の漢字で書かれた単語で表現するしかなかったのです。

このように萩野教授は、日本神話がでっちあげだという学者の説を徹底的に批判しています。

吉田教授がいう日本神話はギリシャ神話から影響を受けたものだという説明は説得力がありました。

また萩野教授の、日本神話を捏造されたものだとする学者を批判する内容ももっともだと思いました。

私も以前、「日本神話はでっち上げられたものだ」と主張する学者の本を何冊か読んだことがありますが、その理由付けがひとりよがりだと感じました。

無理やり考えた説明を読んでもすんなり頭に入らず、非常に疲れるのです。

「神話は何らかの史実を反映したものだ」として勝手な解釈をして変な結論になっているものがたくさんあります。

例えば、天照大神の子孫が高天原から地上に天下ってきたと日本書紀に書いてある内容の解釈もおかしなものです。

日本書紀は、彼らはこの地上ではなく神々が住んでいる天上から降りてきた、と書いています。

ところが日本の学者は、これを「どこか別の場所から日本にやってきた史実を反映したものだ」と解釈してしまいました。

そして朝鮮半島を経由して騎馬民族が日本を征服したという「騎馬民族説」が戦後大流行しました。

この影響で、天皇家の先祖は朝鮮半島からやってきたと信じている日本人も多いのです。

この説に朝鮮人は喜んでしまい、現在の朝鮮人は「天皇家は朝鮮人だ」と考えています。

そして日本と朝鮮に共通する文化は全て朝鮮から来たと思い込んでいる日本人も多いのです。

このように古代史を変に解釈する説の悪影響は単に学問の世界だけでなく、現実の世界にも及んでいます。

そういう意味で萩野教授が一所懸命書いているその背景にある動機には共感できました。

私は、日本の学者の研究の仕方が偏っていると思っています。

間単に変化するものに重点を置きすぎるということです。

現在の日本人には畳で生活したことがなく、正座できない者がたくさんいますが、伝統的な習慣から判断すれば彼らは日本人ではありません。

アメリカには日系人が大勢住んでいますが、日本語が全然分からず英語しか話せない者も多くいます。

これを言葉から民族を判断する方法では、彼らはイギリスからの移民となってしまいます。

同様にフランス人やスペイン人はラテン語の方言を話していますが、彼らの先祖はローマ人ではありません。

言語や習慣というのは割合簡単に伝播し変わるのです。

神話も簡単に伝播するし、変えることも出来るものです。

ギリシャ神話がはるか日本に伝わってきたことを考えても納得できると思います。

そして全体の物語の骨格はあまり変わらないにしても、人名や地名などは変わっていきます。

言語とか習慣、神話といった簡単に移動し変わるものから歴史を知ろうというのはかなり難しいのです。

ですから歴史学で一番重要視するのは、やはり文字に書かれた情報です。

出土品や言語・神話などはその補助的なものに留めておくべきなのですが、日本の神話については、その補助的な位置から逸脱していると思います。

古代の日本のことを書いた文献が非常に少ないので、神話を研究せざるをいないわけですが、筋の通らない扱い方をしてはなりません。

神話は長い間に変わっていき辻褄があわなくなっていきますが、その矛盾を突いて自分の思っている方向に無理やり結論を持っていく態度は萩野教授に批判されてもしかたがないと思います。

その一方で、萩野教授の研究の仕方もおかしいと思いました。

萩野教授の主張は、神話は長年にわたって語り継がれてきたものであって支配者が捏造したものではない、というものです。

ではイザナミという日本人の先祖である女が日本列島を本当に産んだのでしょうか。

イザナギがみそぎをしたときに、左目から天照大神が、鼻からスサノオが本当に生まれたのでしょうか。

高天原というところが地上ではなく、天空のどこかに本当にあったのでしょうか。

これらが現実に起こったことでないことは、皆さんも当然わかると思います。

即ち神話というのは、初めに捏造されたものだということです。

しかもその神話というのは多くの場合、政治的な目的で捏造されたものです。

ギリシャの王家の先祖は、オリンポスにいる神々でした。

ギリシャ以外でも、王家や貴族は神話の神をその先祖に持ってきて、自分たちが一般庶民とは違うのだと宣伝し、自分の支配権を正統化しています。

神話とは政治的文書なのです。

ところが、萩野教授は「神話は政治的文書ではない」と主張していますから、スタート時点で考えの方向が違っています。

萩野教授が批判する日本の学者は、日本神話が政治的文書だとして、それを基になんとか古代日本を知ろうと努力したのです。

それを萩野教授は彼らを批判するだけで、古代の日本とはこうだったという自分のアイデアを明らかにしていません。

ただ他人を批判しているだけです。

日本書紀の初めの部分に書かれているのが日本神話で、その詳細を多くの学者が研究しています。

そこには多くのことが書かれていますが、日本書紀が言いたいことは、天王家は天照大神の子孫で神から日本の支配者に指定されているということです。

天照大神の子孫である神武天皇の子孫が現在の天皇で、将来も天皇の子孫が日本を支配するのが正しいと主張しています。

その証拠として、イザナギ・イザナミから始まる神話を書いているのです。

この日本書紀の主張がインチキだと考えて、多くの日本の学者が研究しているのですが、その方法が非合理なのでおかしなことになっているわけです。

私は日本書紀という信用できない文献を研究するのではなく、他の研究方法があると考えています。

日本神話の研究がここまでおかしくなってしまったのは、古代日本に関する文献が極端に少ないからです。

歴史を研究する方法は警察の犯人探しの方法と同じです。

当事者のいうことを信用せず、利害関係にない第三者の証言を重視します。

当事者のいうことは物証によって証明されるまでは信用できません。

そしてこの犯罪によって誰が得をするのかを考えて犯人を絞っていきます。

日本書紀は、天皇家の歴史を当事者である天皇家が書いたものですから内容を鵜呑みにすることは出来ません。

ですから日本書紀を研究して、当時の天皇家の行動を知ろうとするなら、それ以外の証拠の裏づけが必要です。

その証拠が得られないのなら、「分からない」という態度をとるべきです。

証拠もなく、「事実は分からない」という踏ん切りもつけていないのが、今の日本の学者だと思います。

古事記は偽書で日本書紀より百年後に書かれたことが明らかになっていますから問題外です。

外国の文献としては支那と朝鮮の歴史書が考えられますが、朝鮮の歴史書は信用できません。

朝鮮の歴史書は日本書紀よりずっと後になって書かれたもので、古代日本と同時代の資料をもとにしているわけではないのです。

結局支那の歴史書が一番頼りになるわけです。

漢書に2000年前の日本のことが書かれていますが、これによると当時の日本は100以上の国に分かれていました。

一方日本書紀では初代天皇の神武天皇が即位したのが、今から2600年以上前になっています。

ですから日本書紀の神武天皇の記載はウソです。

そもそも当時は縄文時代ですね。

次が有名な魏志倭人伝で、3世紀の日本について書かれています。

これに邪馬台国の卑弥呼(ヒミコ)のことが書かれているので日本では、江戸時代から300年以上にわたって邪馬台国探しが行われていますが、まだ見つかっていません。

邪馬台国こそ後の大和朝廷の前身でヒミコこそ日本書紀に書かれている女帝の誰かだろうと考えたわけです。

しかしいくら探しても見つかるわけがありません。

魏志倭人伝は、邪馬台国が台湾にあったと書いているのです。

日本の統一王朝の首都が台湾にあるわけがありませんから、日本の学者はこの記載が誤りだとして、九州や近畿にあったと主張しています。

しかしこれを誤りだと決め付ける前に、支那がこのように書いた事情を考えてみるべきではないでしょうか。

支那には当時邪馬台国という統一国家をでっち上げる必要があったから、こう書いたのです。

そして邪馬台国という統一国家などなく、多くの国に別れていたのが当時の日本でした。

これが私の結論です。

このへんのことについては私の本かブログ「邪馬台国」を読んでください。

魏志倭人伝は、邪馬台国のヒミコの宮殿には宮女が1000人と兵士がいたと書いています。

このように国家組織をもっていたなら役人もいたでしょうし、彼らの家族・召使、さらには首都の色々なサービスを提供する商人・職人も含めたら首都の人口は二万人ぐらいになります。

こうなると飲料水や下水の設備などが衛生上から不可欠です。

このような都市の遺構が発見されて始めてちゃんとした統一国家たる邪馬台国の存在が実現性を持ちます。

単に吉野ヶ里遺跡など少し大きめの村落などという程度のものではないのです。

このように台湾だったという場所の問題だけでなく、遺構という点からも当時日本に統一国家があったはずがありません。

支那が三国志の戦乱時代だった3世紀初めの日本はまだ統一された状態ではありませんでした。

その200年ぐらい後の400年頃には日本にも王が現れてきました。

朝鮮と満州の国境を鴨緑江が流れていますが、ここに高句麗の好太王が建てた石碑があります。

それには、391年日本軍が朝鮮で高句麗軍と戦ったことが書かれています。

また、413年から502年にかけて、日本の王が支那の皇帝に使者を遣わしたことが書かれています。

ですから紀元400年頃には、日本は海外遠征できるだけの力を持った王がいたことがわかります。

ただしこれらの王は、官僚と常備軍を持った強大な王ではなく、有力氏族連合のボスという存在でした。

当時、王位を巡って有力者どうしの内戦が何回となく起こっていることからわかります。

また、これらの日本の王が日本書紀のどの天皇にあたるかについては多くの説があります。

562年には南朝鮮にあった日本領の任那が新羅に滅ぼされてしまいました。

日本が朝鮮に侵略されたわけで、こういうことを日本人はちゃんと知っておく必要があります。

隋書という支那の歴史書には、608年に倭王(日本王)のアメ・タリシヒコが隋の皇帝に使いを送ってきたことが書いてあります。

「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす。つつがなきや」とアメ・タリシヒコが支那の皇帝と対等な手紙を書いたことで有名です。

支那の皇帝は自分と同格の存在を認めませんからこの手紙に怒りましたが、当時の国際情勢から日本と喧嘩をすることが出来ず、下級役人を答礼に日本に派遣しています。

支那の役人は日本に来て実際にアメ・タリシヒコに会っています。

アメ・タリシヒコにはキミという妻がいて、ハーレムに多くの女を抱え、リカミタフリという名の跡継ぎがいたと報告しています。

日本書紀ではこのときの天皇は推古天皇で、聖徳太子が摂政をしていたと書かれています。

支那の役人が会ったのは中年の男だったのに、日本書紀では天皇は女だったと書いています。

支那側が女を男だったとウソをついてもなんのメリットもありませんから、日本書紀はウソをついています。

つまり推古天皇・聖徳太子の家系はこのとき日本の王ではなかったのです。

608年以後の何時かの時点で日本の王の家系が交代したのです。

このへんの詳細は私の本かブログ「日出づる処の天子」を見てください。

アメ・タリシヒコが支那に使いを送ってから55年後の663年に日本軍は、朝鮮の白村江で唐・新羅連合軍に大敗北してしまいました。

敗戦当時の日本の天皇が誰だったかはよく分りません。

日本書紀では当時の天皇を天智天皇としていますが、彼はよく分らない人物です。

645年に中大兄皇子(後の天智天皇)と藤原鎌足が蘇我氏を倒した大化の改新が起きたと日本書紀には書いてあります。

中大兄皇子は大化の改新当時19歳で、古代では立派な大人です。

それに毛並みは良いし、何より蘇我氏を倒したことにより最強の権力者だったのに天皇になりませんでした。

叔父や母親を天皇にして、自分は皇太子として実権を握っていたと一般に説明されていますが、なんでそんなことをするのか納得できる説明がありません。

人妻だった妹と不倫をしたというスキャンダルが原因だという説があります。

しかしそれが天皇になるのが23年も遅れた理由になるでしょうか。

そもそも大化の改新などなかったのではないかという説が学者の間で最近強くなっています。

確かに大化の改新はあったという証拠がみつからないのです。

天智天皇は661年に即位式をしないで天皇の位にだけ就き、668年に正式に即位したという変な説明を日本書紀はしています。

天智天皇は、即位の3年後の671年になくなり、その後を息子(大友皇子)が継ぎました。

しかし天武天皇が兵を挙げて大友皇子を殺し天皇になりました。

これが672年に起きた壬申の乱です。

日本書紀は、天智天皇と天武天皇は兄弟だったと書いています。

しかし、これはウソで赤の他人です。

支那の歴史書は、このときに日本で易姓革命が起きて天皇家の家系が交代したと書いています。

また天武天皇は即位後に国名を「倭」から「日本」に変えました。

儒教の思想では国名を変えるというのは易姓革命(支配者の家系が交代すること)が起きたことを意味します。

当時の東アジアの国際関係は儒教の思想に基づいて行われていました。

ですから、天武天皇は国名を変えることによって日本の天皇家の家系が交代したことを支那や朝鮮に向って宣言したわけです。

この辺の詳しいことは、私の本かブログ「家族の絆」や「大君は神にしませば」をみてください。

日本書紀は、天皇の家系が神から繋がっている「万世一系」のもので、正統な日本の支配権を持っているということを証明することを目的として書かれたものです。

一方、現在の日本の学者が一所懸命に証明しようとしているのは、日本書紀に書かれている内容がデタラメだということです。

しかし、信用できない日本書紀をこねくり回さなくても「万世一系」が捏造である証拠は私が説明したようにたくさんあります。

日本神話を巡る萩野教授と他の日本の学者の論争は、日本書紀という信用できない資料だけを問題にしている狭い視野での論争だと私は感じました。

もうひとつ、私が感じたことがあります。

それは日本の古代史学者は、人間についての洞察力を持っていないということです。

第二次世界大戦で日本が負けた直後、アメリカ軍は日本人が天皇を神の子孫だと信じきっていると思っていました。

そしてそれが非合理だということを言うために、捕虜となった日本軍人を集めてダーウィンの進化論を教え始めたのですが、彼らは全員が進化論をすでに知っていました。

人間の先祖は猿であり、天皇の先祖もまた猿だったことを捕虜の日本軍将校は知っていたのです。

現在の日本人が天皇の先祖が摩訶不思議な力を持った神ではないということを知っているのと同じように、明治や戦前の日本人も天皇の先祖が神ではなかったことを知っていたのです。

幕末の日本は幕府や諸藩の寄り合い所帯で、とても統一された近代国家といえる状態ではありませんでした。

そこで、昔からの権威であった天皇を「機軸」にして日本が近代国家を作り上げたということを、日本人は皆感じ理解していたのです。

また日本人は、国家や社会を自然現象と考えていましたが、江戸時代になって国学や心学が普及すると、神話の天照大神を自然の恵みの象徴とする考え方が広がっていきました。

このように、日本人の天皇に対する感情は、自然に対する感情と混合して出来たものです。

この天皇に対する感情は感覚的なもので理屈から出てきたものではありません。

ですから「天皇を本当に神だと思っているのか」と問い詰められれば、ノーと答えるしかありません。

だいたい教育を受け、世間を知った大人が日本神話に書かれているようなことが現実に起こったとは誰も思わないでしょう。

それを現在の日本の学者が、「神話は現実に起きたことではなくフィクションだ」とことさらに力説しているのは非常に滑稽で、一般の日本人をなめているとしか思えません。


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